学生の頃、理学部にいたから、数学とか物理とか、そういう科学の授業を受けたが、勉強することが山ほどあって、なかなか最先端の科学には到達できないなあ、と感じていた。実際、最先端の科学のほんの小さな一領域を進めるようになってみて、学生の頃と比べて何が変わっただろうとふと思う。
まず、当然ながら、専門知識は増え、研究に必要な技術、自分の場合は計算機の使い方やらデータの取得、デコードのやり方なんかは身についた。この狭い一分野で何がわかってなくて、どんな研究が面白いか、価値があるか、なんてことも分かるようにはなった。しかし、若かった自分が最先端の科学をやるようになったらどんな眺めが得られるだろう、と漠然と期待していたことを思うと、期待していたような眺めが得られているだろうか、と思う。いろんな専門知識を得たら、物が違って見えるだろうか、とか、色々わからない人生の疑問にも見え方が違ってくるのだろうかとか、そんな淡い期待をなんとなく思いながら、勉強していたと思う。
先端研究者と呼ばれるようになってみて、確かに後ろを振り返ると身につけてきたものは色々とあるが、それが人生の疑問に対して何か見方を変えるようなことはないように思う。気象が専門だから、雲がどうやってできるかとか、どうやって雨が降るかとか、なんで空が青いかとか、そういうことに科学的な理屈は付けられるようにはなった。どうやって将来の天気を予測するかとか、どうして天気予報が外れるかとか、どうやったらもっと当たるようになるだろうかとか、そういうことについても、科学的に考えることができるし、研究を進めれば一つ一つ解決して、確かに天気予報の改善に結びついていく。一歩一歩研究を進める過程で、まだ古今東西だれも見たことがないほんの小さな科学的事実を初めて見ることもある。これが先端研究者として最大の喜びで、研究者冥利につきるわけだが、だからといって何か見え方が変わるわけではない。単に大発見に結びつくような大きな研究をしていないからかもしれない。目立たない研究を地道に続けている者のひがみかもしれないが、仮に大発見をしたとしても、それが若い頃漠然と期待した眺めに相当するものではないような気がする。
常に前を見て進む日々は、永遠と続く先の見えない坂でしかない。時々てっぺんのようなところに到達しても、すぐ前には坂が続いている。後ろを振り返ると眺められるものがあるかもしれないが、それは感傷に浸る程度なものであって、前を見るとやっぱりわからない事だらけだ。それが科学の醍醐味であって、誰も上がったことがないところへ上り続けていくのが楽しいのだが。結局のところ、先端研究者になっても、違った眺めが得られるようになる、ということはなさそうだ。今も学生の頃と同じ期待を持っているのかもしれない。目指しているのは神の眺めだろうか。
2012年3月30日金曜日
2012年3月21日水曜日
学生時代の講義ノートを見つけてみて
今のオフィスには本棚が3つある。その中の一つのまるまる二段を、主に学生時代の教科書だった物理や数学の日本語の本がまるまる占拠している。ふとオフィスで人と話していて、「学生時代の本ですか、よくこんなに残ってますね」という話になった。確かに物持ちはいい。もともとこれらの本は、大学を出て東京に引っ越す際にダンボールに詰めて日の目をみることのなかったもので、何度か引越しを繰り返すもダンボールに詰め込まれたまま、家の倉庫に眠っていた。去年の夏、広いオフィスに移ったのを機に、家の倉庫からアメリカに送ったのだった。
大学を出たのが2000年3月のことだから、ちょうど12年がたつ。そのダンボールには、講義ノートも一緒に入っていたようで、ふと気づいてパラパラとめくってみた。バカまじめに板書をノートに書き写していたようで、B5サイズのファイル2つ分程度のものではあるが、中はインデックスもつけてあって整理されているのに驚いた。大学の時に勉強した内容は、覚えていることも稀にあるけれど、何だかよく覚えていないことが当然ながら多い。大学の授業を思い返してみて、頭の中に残っていることは、あの先生は厳しかったなあ、とか、面白かったなあ、とかいう印象ばかりだ。それから、内容に関しても、ほとんどが面白い内容だったな、という感想的なもの。記憶の残り方というのは面白い。
しかしそれを思うと、今は逆に教鞭をとる立場になって、教えるときに何が大切か、ということを思った。内容云々以前に、教える姿勢が一番長く学生の記憶に残ると思うと、少し怖くもなった。普段気にするのは、いかに科学的内容を的確に教えるか、ということばかりで、学生の目にどう写ってどういう印象を与えるのか、ということなど考えない。そうは言っても、どういう印象を与えるか、ということは気にしたところでどうとなるわけもなく、ふと自分の記憶の残り方を意識して、自分が今やっていることと照らし合わせてみた、ということにすぎない。
大学を出たのが2000年3月のことだから、ちょうど12年がたつ。そのダンボールには、講義ノートも一緒に入っていたようで、ふと気づいてパラパラとめくってみた。バカまじめに板書をノートに書き写していたようで、B5サイズのファイル2つ分程度のものではあるが、中はインデックスもつけてあって整理されているのに驚いた。大学の時に勉強した内容は、覚えていることも稀にあるけれど、何だかよく覚えていないことが当然ながら多い。大学の授業を思い返してみて、頭の中に残っていることは、あの先生は厳しかったなあ、とか、面白かったなあ、とかいう印象ばかりだ。それから、内容に関しても、ほとんどが面白い内容だったな、という感想的なもの。記憶の残り方というのは面白い。
しかしそれを思うと、今は逆に教鞭をとる立場になって、教えるときに何が大切か、ということを思った。内容云々以前に、教える姿勢が一番長く学生の記憶に残ると思うと、少し怖くもなった。普段気にするのは、いかに科学的内容を的確に教えるか、ということばかりで、学生の目にどう写ってどういう印象を与えるのか、ということなど考えない。そうは言っても、どういう印象を与えるか、ということは気にしたところでどうとなるわけもなく、ふと自分の記憶の残り方を意識して、自分が今やっていることと照らし合わせてみた、ということにすぎない。
2012年1月29日日曜日
電子ブックか紙の本か
Kindleを買ってから1年ちょっとが過ぎたが、電子ブックを買うか紙の本を買うかで悩むことが多い。
Kindleの電子ペーパーはよくできていて、たしかに読みやすい。何より、本一冊持ち歩くより軽くて薄いのに、何千冊分も入るのだ。これは、移動時に重宝する。旅行のみならず、引越しの時など本は重い荷物になるから、それを思えばKindleは画期的だ。
1年ちょっとKindleを使ってきてみて、最初は物珍しさから頻繁に使っていたKindleも、最近は使う機会が減った。今は元通り紙の本を買うことが多い。特に仕事関係の本は、必ず紙の本を買う。本棚に並べておくこと自体に意味があるように思う。本棚を眺めるだけで、読んだ時の記憶が蘇る。Kindleのメニューに並ぶ本のタイトルだけを見ても、それはない。知的創造を行う仕事では、過去の読書の記憶が直感で引き出せるのは大きなメリットだ。
背表紙だけでも、大きさ、厚さ、古さ、色、フォントなど、様々な情報があって、やはり実物には相応の価値があるのだと思う。本棚を何の気なしに眺めるだけで、ああ、ああいう事を読んだな、勉強したな、と記憶の引き出しとして機能する。Kindleでタイトルが表示される程度では、その効果はまず無い。
Kindleのメリットを思うままに書いてみる。1.いくつもの本を開いたままおいておくことができる。2.買うとすぐに配信されてくる。3.新聞、雑誌の自動配信。4.どの端末で開いても、同じ場所から開かれる。ブックマークなど、意識することなく共有されているのは便利だ。5.下線を引いたりメモをしたりできるのだが、大勢の人が同じ箇所に線を引くと、そこが自動的にハイライトされる。この機能は面白くて、Kindleならではだろう。6.そして何と言っても持ち運びの便利さ。
次に、メリットと思っていたのに実はメリットでない点。
本の値段はあまりメリットではないことがわかった。Kindleの本も、Paperback版の本も、同じくらいの値段のことが多いし、むしろPaperback版の紙の本のほうが安いことも少なくない。
結局のところ、上述の本棚に並べておく意義のため、仕事に関係する本は紙の本。小説、雑誌の類はKindleが便利だけど、最近はあまり読んでいないので、結局のところKindleに触れる機会が減ってしまっている。
Kindleの電子ペーパーはよくできていて、たしかに読みやすい。何より、本一冊持ち歩くより軽くて薄いのに、何千冊分も入るのだ。これは、移動時に重宝する。旅行のみならず、引越しの時など本は重い荷物になるから、それを思えばKindleは画期的だ。
1年ちょっとKindleを使ってきてみて、最初は物珍しさから頻繁に使っていたKindleも、最近は使う機会が減った。今は元通り紙の本を買うことが多い。特に仕事関係の本は、必ず紙の本を買う。本棚に並べておくこと自体に意味があるように思う。本棚を眺めるだけで、読んだ時の記憶が蘇る。Kindleのメニューに並ぶ本のタイトルだけを見ても、それはない。知的創造を行う仕事では、過去の読書の記憶が直感で引き出せるのは大きなメリットだ。
背表紙だけでも、大きさ、厚さ、古さ、色、フォントなど、様々な情報があって、やはり実物には相応の価値があるのだと思う。本棚を何の気なしに眺めるだけで、ああ、ああいう事を読んだな、勉強したな、と記憶の引き出しとして機能する。Kindleでタイトルが表示される程度では、その効果はまず無い。
Kindleのメリットを思うままに書いてみる。1.いくつもの本を開いたままおいておくことができる。2.買うとすぐに配信されてくる。3.新聞、雑誌の自動配信。4.どの端末で開いても、同じ場所から開かれる。ブックマークなど、意識することなく共有されているのは便利だ。5.下線を引いたりメモをしたりできるのだが、大勢の人が同じ箇所に線を引くと、そこが自動的にハイライトされる。この機能は面白くて、Kindleならではだろう。6.そして何と言っても持ち運びの便利さ。
次に、メリットと思っていたのに実はメリットでない点。
本の値段はあまりメリットではないことがわかった。Kindleの本も、Paperback版の本も、同じくらいの値段のことが多いし、むしろPaperback版の紙の本のほうが安いことも少なくない。
結局のところ、上述の本棚に並べておく意義のため、仕事に関係する本は紙の本。小説、雑誌の類はKindleが便利だけど、最近はあまり読んでいないので、結局のところKindleに触れる機会が減ってしまっている。
2011年12月24日土曜日
風邪と休養
最近ちょっと風邪を引いた。12月初めにサンフランシスコに出張があったのだが、出発の前夜に38度を超える高熱。そのまま夜中はうなされ、朝5時の出発前にもまだ38度を超える高熱があった。ふらふらしながらも車を運転して空港に行って、予定通りにでかけた。ビタミンCを大量に摂取して何とかそれほど悪化はせずに過ごすことができ、体調不良ながらも仕事は何とかこなすことができた。
帰ってきてからも通常通りに仕事をしながら、風邪は3,4日で大体回復し、その後3,4日程度は順調だったものの、また38度を超える高熱が出た。翌朝は37度程度の微熱で、仕事に行ったが、午前中のうちに頭痛が起こり始め、悪寒も感じて症状が悪化。午前中いっぱいで帰った。この時は、数日休んだ。寝ても寝ても眠れるのには驚いた。やっぱり疲れていたのだろう。
どこかでこんな記事を見た。風邪の時の休養は最良のデトックスである。風邪は体からのサインだから、薬などは使わずに、暖かくしてゆっくり休むのが良い。時々風邪を引いているくらいが健康、その時にちゃんと休んで、体の言うことを聞く。高熱は免疫システムを効果的に作動させるための体の仕組み。解熱剤を使うのは本末転倒、そんな対処を続けていると、体は熱すら出さなくなり、風邪も引かぬようになる。そうすると、デトックスせずに毒を溜め込んだ体は、ある時堰を切ったように重い病を患うだろう。
ふーん、と思う。確かに風邪は引くものだし、風邪を引いたときはおとなしく寝てるのが一番と思う。どうしても外せない仕事があるときはやむを得ないが、幸いと言おうか、今回はぶり返してくれた。多分休まずに直したので、体が弱っていたのだろう。免疫も弱く、簡単に別の風邪にかかってしまったのだろうと思う。
寝ても寝ても眠れるだけ眠って、治ってみると、体は軽い。上で述べた記事にはこんなことも書いてあったと思う。風邪を引いて寝こんで治った後は、運動した後のように清々しく体が軽くなる。たしかにそんな気がした。
卵酒程度は良いとしても、ビタミンCを含め、特殊なものは一切取らず、おかゆさんでも食べて暖かくして寝て、自然治癒させるのが体にとっては良いのだろう。そんなことはわかっていてもなかなかそうはできないのが現代社会。それでもあえて、時間をかけてもゆっくり直したほうが、実はトータルで見ると安上がりなのかもしれない。
帰ってきてからも通常通りに仕事をしながら、風邪は3,4日で大体回復し、その後3,4日程度は順調だったものの、また38度を超える高熱が出た。翌朝は37度程度の微熱で、仕事に行ったが、午前中のうちに頭痛が起こり始め、悪寒も感じて症状が悪化。午前中いっぱいで帰った。この時は、数日休んだ。寝ても寝ても眠れるのには驚いた。やっぱり疲れていたのだろう。
どこかでこんな記事を見た。風邪の時の休養は最良のデトックスである。風邪は体からのサインだから、薬などは使わずに、暖かくしてゆっくり休むのが良い。時々風邪を引いているくらいが健康、その時にちゃんと休んで、体の言うことを聞く。高熱は免疫システムを効果的に作動させるための体の仕組み。解熱剤を使うのは本末転倒、そんな対処を続けていると、体は熱すら出さなくなり、風邪も引かぬようになる。そうすると、デトックスせずに毒を溜め込んだ体は、ある時堰を切ったように重い病を患うだろう。
ふーん、と思う。確かに風邪は引くものだし、風邪を引いたときはおとなしく寝てるのが一番と思う。どうしても外せない仕事があるときはやむを得ないが、幸いと言おうか、今回はぶり返してくれた。多分休まずに直したので、体が弱っていたのだろう。免疫も弱く、簡単に別の風邪にかかってしまったのだろうと思う。
寝ても寝ても眠れるだけ眠って、治ってみると、体は軽い。上で述べた記事にはこんなことも書いてあったと思う。風邪を引いて寝こんで治った後は、運動した後のように清々しく体が軽くなる。たしかにそんな気がした。
卵酒程度は良いとしても、ビタミンCを含め、特殊なものは一切取らず、おかゆさんでも食べて暖かくして寝て、自然治癒させるのが体にとっては良いのだろう。そんなことはわかっていてもなかなかそうはできないのが現代社会。それでもあえて、時間をかけてもゆっくり直したほうが、実はトータルで見ると安上がりなのかもしれない。
2011年12月18日日曜日
日本語でつぶやくか英語でtweetか
TwitterやFacebookでつぶやくとき、英語を使うか日本語を使うかで葛藤がある。母国語の日本語のほうが自然につぶやけるのは事実だ。しかし、Facebookで見ていると、中国人や台湾人はかなりの割合で中国語でつぶやいていて、これを目にするのは正直気分が良くない。何言っているんだかわからないし、そのあと中国人や台湾人の間でコメントし合っていたりしても、全く入り込めない。
インターネットには国境がない。ますます国際化が進む昨今、いろんな国の人がFollowしたりFriendリストに含まれることは多いだろう。やっぱり共通言語としての英語を使わないと、日本語がわからない人から見ると非常に感じが悪いんだろうな、と思う。それでもやはり、日本で生まれ育った以上、日本人の友だちやフォロワーが多かったりもする。日本人同士では、慣れない英語では思うようにコメントをしにくく、英語でつぶやいたせいで対話の機会を減らしているかもしれない。
ふと思うと、日本語でつぶやくか英語でTweetするかは、パーティー中での会話とよく似ている。パーティーの種類にもよるのだろうが、やはり一人でも日本語が理解出来ない人がいるパーティーでは、日本語は使うべきではないのだろう、と思う。仮に日本語限定のパーティーなら、当然日本語を使うべきだろうし、そこに日本語がわからない外国人が紛れ込んでいたとしても、承知の上と思って良い。しかし、TwitterやFacebookで自分のアカウントは日本語限定、とは言い切れないし、少なからず日本語がわからないFollowerや友達が含まれる。英語が理解出来ない日本人がいた場合は難しい状況になろうが、今のところ英語が全くわからない日本人が私の書き込みを読む機会はないだろうと思っている。結局、どうしても必要な場合を除き、英語でTweetするのが正解、と思っている。
2011年11月23日水曜日
プロポーザルを書いててふと思った「産みの苦しみ」
Creativeな仕事はいろいろあるけど、どれも「存在しないものを生み出す」ことに関係している。この産み出すという作業、それなりに大変なんだなあ、と久々にプロポーザルを書いていて再認識。
プロポーザルとは研究提案書のこと。研究にはお金がかかるので、プロポーザルを書いて政府機関その他からのGrantを求める。アメリカの大学では一般的。
具体的な研究のアイデアはあっても、それを説得力のある文章、批判的なReviewerを納得させる文章に仕立て上げるのは、それなりに苦労が伴う。この研究をすることが、目に見える直接的な効果があることはわかっていても、もっと大きな目で見た科学への貢献など、整理してわかりやすく伝えなければならない。何も無いところから創り上げるというのはなかなか大変なことで、時間と労力を費やしても成果がなかなか見える形で出来上がってこないことも産みの苦しみ。1文書いては気に入らずに消し、アイデアから考えなおし、ということを繰り返す。邪魔が入らずまる一日費やしても、1, 2ページ進めば良い方。研究の具体的な内容のところまで達すれば、すでにイメージがあるからスラスラと進んだりもする。論文執筆でも同様か。
さて、そんな作業をしながら、Creativeなことをするのはそれなりに大変だなあ、とふと思う。さらに思えば、出来上がった時の喜びもひとしお。うまくできてるな、とも思う。論文がきれいに組版されて掲載されるのはやっぱりうれしいものだ。それは著者冥利につきるもので、本を書く人も同じなんだろうな、と想像する。各種デザイナー、建築家、芸術家、その他、いろんなCreativeな仕事でも同じなのだろう。
苦しんだだけ産んだ時の喜びは大きいのだろうか。そんなことを思いつつ、「三歩進んで二歩下がる」苦労を続けてプロポーザルに取り組む。
プロポーザルとは研究提案書のこと。研究にはお金がかかるので、プロポーザルを書いて政府機関その他からのGrantを求める。アメリカの大学では一般的。
具体的な研究のアイデアはあっても、それを説得力のある文章、批判的なReviewerを納得させる文章に仕立て上げるのは、それなりに苦労が伴う。この研究をすることが、目に見える直接的な効果があることはわかっていても、もっと大きな目で見た科学への貢献など、整理してわかりやすく伝えなければならない。何も無いところから創り上げるというのはなかなか大変なことで、時間と労力を費やしても成果がなかなか見える形で出来上がってこないことも産みの苦しみ。1文書いては気に入らずに消し、アイデアから考えなおし、ということを繰り返す。邪魔が入らずまる一日費やしても、1, 2ページ進めば良い方。研究の具体的な内容のところまで達すれば、すでにイメージがあるからスラスラと進んだりもする。論文執筆でも同様か。
さて、そんな作業をしながら、Creativeなことをするのはそれなりに大変だなあ、とふと思う。さらに思えば、出来上がった時の喜びもひとしお。うまくできてるな、とも思う。論文がきれいに組版されて掲載されるのはやっぱりうれしいものだ。それは著者冥利につきるもので、本を書く人も同じなんだろうな、と想像する。各種デザイナー、建築家、芸術家、その他、いろんなCreativeな仕事でも同じなのだろう。
苦しんだだけ産んだ時の喜びは大きいのだろうか。そんなことを思いつつ、「三歩進んで二歩下がる」苦労を続けてプロポーザルに取り組む。
2011年5月15日日曜日
少子化問題に見る刷り込み
刷り込みは怖い。まるで疑いを持たないからだ。今の日本人で、少子化は社会問題であって解決すべきだ、という議論を疑う人はどれくらいいるだろうか。また、原子力は日本にとって必要なエネルギー源である、ということも似ていたように思う。
さて、少子化=人口減少が解決すべき社会問題だというのは、大いに疑ってよい。どこかの時点でSteady State Economyに移行すべき世の中にあって、少子化はそのきっかけとなりうる。そもそも資源には限界があるわけだが、現在のGrowth Economyを前提とした考え方では資源が有限であることを一切無視している。そもそも無限のGrowthなどあり得ない、という当たり前の事実をまずは認識すべきである。
少ない人口では、各種資源の消費も少なく、住宅問題なども生じず、CO2排出量も少なくなるし、各種環境問題が叫ばれる中、良いことづくしである。1人あたりの価値を高める高水準の教育を行い、1人あたりの生産性を向上させれば、平均的な生活水準は落ちるどころか上がるし、ひとりひとりの幸福も増えるだろう。資源不足による貧困は生じることもないし、人口集中による住宅問題なども緩和される。同じ生産性を維持しながら働く時間を減らし、生きる歓びに費やす時間を増やすこともできるだろう。先進国として、最小不幸社会、また、最大多数の最大幸福、を同時に実現するには、Growth EconomyからSteady State Economyへの考え方のシフトが重要である。この中で、人口減少は重要な役割を果たす。
Growth Economyを叫ぶ主流派は、結局のところ、技術革新が根本的役割を果たすと考えているようだし、事実これまでの歴史ではそうだったかもしれない。既に地球資源に限界を感じるようになってきた今、将来SFにあるように宇宙に資源を求め、無尽蔵な資源を技術革新によって開拓していけば、Growth Economyを支えられるかもしれない。人類が生物である以上、数を増やそうとするのはそれこそDNAレベルで刷り込まれた本能と言えるかもしれない。その意味では、確かにGrowth Economyが生物として正しい方向だし、人口を無限に増やしていく方策を考えるのは尤もだとも言える。
しかしここで言いたいのは、人口減少は悪である、ということを、すべてのメディア、教育等で叫ばれていては、子供の頃から完全に刷り込まれて正しい議論ができないのではないか、ということである。刷り込まれて疑いを知らず、人口減少はよくないのだ、と「信仰」してしまう。様々な議論があってしかるべき人口問題を、このような偏った考え方で埋め尽くすことに、大いに疑問を感じる。このような刷り込みがあってこそ、ある政党は人口減少問題を掲げ、出生率向上のための政策として子ども手当というあり得ない愚策が実際に実行されてしまうに至り、また他の多くの政党でも、少子化対策が重要な政策項目となっている。政府が先頭にたってお見合いパーティーを行うのだ、とかいったふざけた政策もあったように思う。こういう馬鹿げた政策がもっともらしく報道されることはあっても、逆の視点は全くと言っていいほど出てこない。少子化バンザイで、それに対応した社会システムのシフトを提起するような政治は全く見当たらない。少子化によってより良い社会を実現する可能性はあるのに、そういう議論すら浮かんでこない。政官学民すべてで、「少子化=悪」ということを完全に刷り込まれているのではないだろうか。
さて、少子化=人口減少が解決すべき社会問題だというのは、大いに疑ってよい。どこかの時点でSteady State Economyに移行すべき世の中にあって、少子化はそのきっかけとなりうる。そもそも資源には限界があるわけだが、現在のGrowth Economyを前提とした考え方では資源が有限であることを一切無視している。そもそも無限のGrowthなどあり得ない、という当たり前の事実をまずは認識すべきである。
少ない人口では、各種資源の消費も少なく、住宅問題なども生じず、CO2排出量も少なくなるし、各種環境問題が叫ばれる中、良いことづくしである。1人あたりの価値を高める高水準の教育を行い、1人あたりの生産性を向上させれば、平均的な生活水準は落ちるどころか上がるし、ひとりひとりの幸福も増えるだろう。資源不足による貧困は生じることもないし、人口集中による住宅問題なども緩和される。同じ生産性を維持しながら働く時間を減らし、生きる歓びに費やす時間を増やすこともできるだろう。先進国として、最小不幸社会、また、最大多数の最大幸福、を同時に実現するには、Growth EconomyからSteady State Economyへの考え方のシフトが重要である。この中で、人口減少は重要な役割を果たす。
Growth Economyを叫ぶ主流派は、結局のところ、技術革新が根本的役割を果たすと考えているようだし、事実これまでの歴史ではそうだったかもしれない。既に地球資源に限界を感じるようになってきた今、将来SFにあるように宇宙に資源を求め、無尽蔵な資源を技術革新によって開拓していけば、Growth Economyを支えられるかもしれない。人類が生物である以上、数を増やそうとするのはそれこそDNAレベルで刷り込まれた本能と言えるかもしれない。その意味では、確かにGrowth Economyが生物として正しい方向だし、人口を無限に増やしていく方策を考えるのは尤もだとも言える。
しかしここで言いたいのは、人口減少は悪である、ということを、すべてのメディア、教育等で叫ばれていては、子供の頃から完全に刷り込まれて正しい議論ができないのではないか、ということである。刷り込まれて疑いを知らず、人口減少はよくないのだ、と「信仰」してしまう。様々な議論があってしかるべき人口問題を、このような偏った考え方で埋め尽くすことに、大いに疑問を感じる。このような刷り込みがあってこそ、ある政党は人口減少問題を掲げ、出生率向上のための政策として子ども手当というあり得ない愚策が実際に実行されてしまうに至り、また他の多くの政党でも、少子化対策が重要な政策項目となっている。政府が先頭にたってお見合いパーティーを行うのだ、とかいったふざけた政策もあったように思う。こういう馬鹿げた政策がもっともらしく報道されることはあっても、逆の視点は全くと言っていいほど出てこない。少子化バンザイで、それに対応した社会システムのシフトを提起するような政治は全く見当たらない。少子化によってより良い社会を実現する可能性はあるのに、そういう議論すら浮かんでこない。政官学民すべてで、「少子化=悪」ということを完全に刷り込まれているのではないだろうか。
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