2014年4月10日木曜日

久々の投稿

2012年末に日本に帰った。アメリカ東海岸の大学教員としては、2009年初頭より、ちょうど4年間だった。2003年から2005年まで2年間同じ大学に留学していたから、合計で6年間生活したことになる。学生として見える景色と、教員として見える景色、Tenure trackになってから見えた大学の景色は、どれも異なったけれども、順調なステップアップで、それぞれのステップに納得しながらの6年間だった。

さて、2013年の丸1年間、このブログを更新する機会はなかった。まず、見返すこともなかった。アメリカにPIとして研究室を構え、小さいが一研究室の主として切り盛りしてきた。ひょうんな機会で、2012年10月から、新たな研究室を日本に構えることになった。ゼロからのスタートである。最初は誰もいない、ひとりぼっちの研究室。研究員や事務補助などを採用し、今では10人規模の研究室になった。日米の違いを感じながら、この1年半ほど、突っ走ってきた。「なんか書いてみよう」などという余裕はなかった。

今日、この新しい研究室のホームページを一新した。去年採用したテクニカルスタッフがとても優秀で、きれいなホームページを作ってくれた。これを機にリンクをたどり、この忘れかけていたブログに行き着いた。このブログを放置していた間も、じわじわと少しずつでも継続的なアクセスがあって、正直驚いた。書いている内容を少し読んだが、自分で言うのも何だが意外と面白い記事もあって、その頃をふと思い出すこともあるし、楽しい気もした。また、意外とそのとき限りではない情報もあることが分かった。ここにまた「なんか書いてみよう」と思った。

このブログで最もアクセスが多いのは、「アメリカの大学のポジションについて」という記事である。今でも結構なアクセスがあり、継続して関心が高いのだと分かる。アメリカでのJob huntの仕方とか、採用される側、する側としての経験、日本でも研究室を切り盛りして、日米の違いを感じながら、研究員や秘書などを採用してきた。まだ何か意味のある情報を発信できるかもしれない。「なんか書いてみよう」と思ったときに書けるこのスペースを続けてみることにした。

2012年10月26日金曜日

今月の一枚(2012年10月)

裏庭が公園とつながっている。1周2キロ、池の周りの小道を散歩しながら写真の練習。だいぶ紅葉も進んできた。

2012年9月29日土曜日

今月の一枚(2012年9月)

今月は色々と忙しかったのだが、大学でフットボールの試合があってオフィスに行かなかった週末に、ワシントンDCのNational Zooに写真の練習に行ってきた。池に蓮の花が綺麗に咲いていた。

2012年9月26日水曜日

信条は何ですか?と聞かれたら

信条は何ですか?などと聞かれることは、まず、ない。が、つい最近、ふとしたきっかけで自己紹介インタビューを受け、生まれた年とか、出身地とか、これまでの職歴とか、ありていな項目に混じって、「信条」という項目があった。

改めて聞かれてみると、困る。普段から何か一つの信条をもって、行動規範として暮らしてはいない。好きな言葉ならある。人間万事塞翁が馬とか、天の時・地の利・人の和とか、敵を知り己を知れば云々とか、とか、とか。しかし、好きな言葉が信条ですか、と問われれば、否、と認めざるをえない。言葉が立派すぎる。何かの際に、よし、と思って思い出すことはあっても、それを普段から信条として生きているかというと、どうも違う気がする。もうちょっと親しみやすい言葉で、感謝とか、上を向いて歩こうとか、ポジティブ思考とか、普段からよく思うことはあるが、これもなんだか違う。どうもしっくりこない。

いろいろ思っていたら、何だかどうでも良くなってきて、そんな時にふと思ったのが、「良いものを長く大切に使う」ということだ。何か物を買うときは常に意識するし、その意図するところはモノだけに限らず、何事においても、身の回りには良い物、良い人に囲まれていたいと思う。また、そういう良い物、良い人は大切に長くお付き合いしていきたいとも思う。実際、周りを見回すと、これが行動規範として普段から機能しているようにも思う。ということで結局、「良いものを長く大切に使う」、ということが多分信条なんだな、と思って、そう回答することにした。

2012年7月31日火曜日

今月の一枚(2012年7月)

今月の一枚には、スペースシャトルDiscovery号を選んだ。スミソニアン航空宇宙博物館の別館Steven F. Udvar-Hazy Centerは、ワシントンDCダレス国際空港(IAD)のすぐ隣にある。空港に人を迎えに行く用事があったので、ついでに、と寄ってみた。Discovery号は、この博物館に所蔵されている。大気圏突入時に高温で焼け焦げたタイルが生々しい。実際に宇宙に行った本物のスペースシャトルが手の届くところに見えるのは感動モノだ。

2012年3月30日金曜日

先端研究者と呼ばれるようになってみて

学生の頃、理学部にいたから、数学とか物理とか、そういう科学の授業を受けたが、勉強することが山ほどあって、なかなか最先端の科学には到達できないなあ、と感じていた。実際、最先端の科学のほんの小さな一領域を進めるようになってみて、学生の頃と比べて何が変わっただろうとふと思う。

まず、当然ながら、専門知識は増え、研究に必要な技術、自分の場合は計算機の使い方やらデータの取得、デコードのやり方なんかは身についた。この狭い一分野で何がわかってなくて、どんな研究が面白いか、価値があるか、なんてことも分かるようにはなった。しかし、若かった自分が最先端の科学をやるようになったらどんな眺めが得られるだろう、と漠然と期待していたことを思うと、期待していたような眺めが得られているだろうか、と思う。いろんな専門知識を得たら、物が違って見えるだろうか、とか、色々わからない人生の疑問にも見え方が違ってくるのだろうかとか、そんな淡い期待をなんとなく思いながら、勉強していたと思う。

先端研究者と呼ばれるようになってみて、確かに後ろを振り返ると身につけてきたものは色々とあるが、それが人生の疑問に対して何か見方を変えるようなことはないように思う。気象が専門だから、雲がどうやってできるかとか、どうやって雨が降るかとか、なんで空が青いかとか、そういうことに科学的な理屈は付けられるようにはなった。どうやって将来の天気を予測するかとか、どうして天気予報が外れるかとか、どうやったらもっと当たるようになるだろうかとか、そういうことについても、科学的に考えることができるし、研究を進めれば一つ一つ解決して、確かに天気予報の改善に結びついていく。一歩一歩研究を進める過程で、まだ古今東西だれも見たことがないほんの小さな科学的事実を初めて見ることもある。これが先端研究者として最大の喜びで、研究者冥利につきるわけだが、だからといって何か見え方が変わるわけではない。単に大発見に結びつくような大きな研究をしていないからかもしれない。目立たない研究を地道に続けている者のひがみかもしれないが、仮に大発見をしたとしても、それが若い頃漠然と期待した眺めに相当するものではないような気がする。

常に前を見て進む日々は、永遠と続く先の見えない坂でしかない。時々てっぺんのようなところに到達しても、すぐ前には坂が続いている。後ろを振り返ると眺められるものがあるかもしれないが、それは感傷に浸る程度なものであって、前を見るとやっぱりわからない事だらけだ。それが科学の醍醐味であって、誰も上がったことがないところへ上り続けていくのが楽しいのだが。結局のところ、先端研究者になっても、違った眺めが得られるようになる、ということはなさそうだ。今も学生の頃と同じ期待を持っているのかもしれない。目指しているのは神の眺めだろうか。

2012年3月21日水曜日

学生時代の講義ノートを見つけてみて

今のオフィスには本棚が3つある。その中の一つのまるまる二段を、主に学生時代の教科書だった物理や数学の日本語の本がまるまる占拠している。ふとオフィスで人と話していて、「学生時代の本ですか、よくこんなに残ってますね」という話になった。確かに物持ちはいい。もともとこれらの本は、大学を出て東京に引っ越す際にダンボールに詰めて日の目をみることのなかったもので、何度か引越しを繰り返すもダンボールに詰め込まれたまま、家の倉庫に眠っていた。去年の夏、広いオフィスに移ったのを機に、家の倉庫からアメリカに送ったのだった。

大学を出たのが2000年3月のことだから、ちょうど12年がたつ。そのダンボールには、講義ノートも一緒に入っていたようで、ふと気づいてパラパラとめくってみた。バカまじめに板書をノートに書き写していたようで、B5サイズのファイル2つ分程度のものではあるが、中はインデックスもつけてあって整理されているのに驚いた。大学の時に勉強した内容は、覚えていることも稀にあるけれど、何だかよく覚えていないことが当然ながら多い。大学の授業を思い返してみて、頭の中に残っていることは、あの先生は厳しかったなあ、とか、面白かったなあ、とかいう印象ばかりだ。それから、内容に関しても、ほとんどが面白い内容だったな、という感想的なもの。記憶の残り方というのは面白い。

しかしそれを思うと、今は逆に教鞭をとる立場になって、教えるときに何が大切か、ということを思った。内容云々以前に、教える姿勢が一番長く学生の記憶に残ると思うと、少し怖くもなった。普段気にするのは、いかに科学的内容を的確に教えるか、ということばかりで、学生の目にどう写ってどういう印象を与えるのか、ということなど考えない。そうは言っても、どういう印象を与えるか、ということは気にしたところでどうとなるわけもなく、ふと自分の記憶の残り方を意識して、自分が今やっていることと照らし合わせてみた、ということにすぎない。