2011年1月30日日曜日

Kindleのある生活

Kindleを使い始めて1ヶ月半、Kindleがない頃と比べて少し生活が変わった。活字に触れる量の絶対的な増加である。

このような効果は人によって違うのかもしれない。しかし、Kindleを買う以上、少なくとも活字に触れたいという欲求はあるわけで、活字に触れる量は少しは増えることと思う。

さて、小生の場合。Kindleを使う以前は、活字に触れるのは仕事以外ではほとんどなかった。たまに本を読む程度だが、決して読書が趣味と言えるほどの量ではない。新聞もとっておらず、ニュースはインターネットでちょこちょこっとヘッドラインをチェックする程度。それが今は、毎朝届くInternational Herald Tribune紙に目を通す。紙の新聞のようにざっと斜め読みというわけにはいかないが、各記事のヘッドラインを追いながら、最低1時間、場合によっては2, 3時間は記事を読む。本を読むのと同じ画面に同じフォントで同様に新聞記事が表示されるから、まるで本を読む感覚で新聞記事に当たる。ペラペラな新聞紙を開くのとは感覚が違う。人が直接触れる物、というのは重要だなあ、と再認識する。

もちろん紙の新聞にはその良さがある。しかし、Kindleで読む新聞は違ったものに感じる。広告は全くない。新聞を玄関まで取りに行くこともない。朝スイッチを入れればNewというマークが付いていて、ワンクリックで一面トップ記事が表示される。パソコンの画面とは違って活字はとても読みやすい。新聞というものが、Kindleによって変わった。

Blogも試してみた。New York Timesのブログで、評判もそこそこ良い。月2ドル程度で、1日10から20程度の記事が来る。記事も頻繁にアップデートされる。Kindleの画面で読むので、やはり読みやすいのは事実。パソコンのBlogとは全く違う感覚である。やはり本を読むように読める。

しかし、これはすぐに止めてしまった。その理由は、頻繁すぎるアップデートと、同じ記事が何度か重複して配信されてくることだった。やはりKindleはパソコンではない。新聞に満足していただけに、一日一回しっかりと編集されたものが手に入る方が、小生の性質に合っていたということだろう。

もちろん本も読んでいる。無料の本もある。なにより、本が本棚に溜まっていかないのが嬉しい。これは人によってはぜんぜん違う感想を持つだろう。たしかに読んだ本の分厚さを本棚に並べる喜びというのも理解できる。しかし、引越し時の本の重さは尋常でない。本は増える一方だ。今後はアマゾンの購入リストに溜まっていくだけかと思うと寂しさも残るが、実用上のメリットは大きい。常に何冊も入っているというのも嬉しい。何冊を読みかけにしておいても、すぐに閉じた場所から続きが読めるのも嬉しい。

とにかく、活字に触れる機会が絶対的に増えたのは、大きな生活の変化だ。この変化が良いかどうかは別として、Kindleの力を感じる。

2011年1月19日水曜日

研究者として売れていくということ

先日、一緒に仕事をするVisiting Scientistと話していて、どうやって講演の招待を受けるようになったり、場合によってはヘッドハントされるようになったりするのか、といったことが話題になった。確かにいつの頃からか講演の招待を受けるようになり、また、いくつかポジションに誘われたりもした。しかし改めて思うと、なぜ、どうやって、というのは至極尤もな疑問だが、すぐには答えが思い当たらない。

思うに、学生として既に業界で有名な人は非常に少ない。小生も例外ではない。やはりPhDが登竜門だろう。PhDをとって地道に研究を続け、それなりにPaperを出したり、Conferenceで発表したりしていると、そのうちにPaperのReviewを頼まれるようになる。地道に成果を積み重ねていくことで、だんだんといろんな人に知られるようになる、ということではないかと思う。

もちろん、誰もが眼を引くような研究トピックに当たって一発で有名になるようなこともあるかもしれない。しかし、世の中のほとんどの研究者にはそんな幸運はなく、それでも業界で名が知られていくのは、やはり地道な積み重ねとしか思えない。Conferenceに行けばいつもどこかで会ったことのある人と会い、お互いにお互いを認識し始める。それを何年もやれば、お互いConferenceで会う人達、という間柄になる。お互いの仕事をそれなりに知ることにもなるし、そうやって人の輪が広がる。あの人おもしろいことやってたよ、という話が伝わって、別のところから講演を招待されるようにもなる。するとそこでまた新たな人の輪に加わることができる。この繰り返しである。

科学は積み重ねである。失われることはない。そこが、世の中のいろんな事とは違う、科学の特徴的な部分でもある。キャリアの長さがそのまま科学者としての経験値に反映することになる。このため、科学者において、年功序列が自然と機能する。アメリカ的な実際的な人材評価で、やはり基本的には年功序列に従っているのは、科学が積み重ねであることにも一因があるだろう。もちろん過去の輝かしい実績にもかかわらずその後モチベーションを失えば評価は低くなるが、ここで言っているのはそういうことではなく、Consistentに仕事を続けている場合の話である。

さて話を戻すと、いかにして講演の招待を受けるようになるか、ということ。結局のところ、地道に良い仕事を続けていくうちに、じわじわと業界内のクチコミで評判が広がっていく、ということではないかと思うのだが、どうだろうか。

2011年1月6日木曜日

パソコンやPS3のマルチ言語化の恩恵

アメリカでパソコンを買うと、ほんの10年くらい前まではその日本語対応に苦労したようだ。

2005年にアメリカでPowerbook G4というMacを買ったとき、当時出たばかりのMac OSX 10.4通称Tigerは、完全にマルチ言語だった。このため、買って手元に届いて初めて起動したときに、「日本語」を選択すると、日本で買ったMacと全く同等、というわけで、とても驚いた。マイクロソフトOfficeは、メニューなどが英語だったように思うが、それでも日本語のファイル名や中身が日本語のDOCやEXLファイルの類も問題なく扱え、日本とやり取りするのに困ったことはなかった。

マルチ言語のMacということは、同じ製品をどの国でもそのまま売れるということだ。付いてきた説明書などは英語のものしか入っていなかったけれど、説明書だけを売る国の言語に置き換えればよい。顧客にとってもこのメリットは多大で、例えばアメリカ人が日本赴任中にMacを買っても、なんの問題にもならないということだ。日本で特殊なのは日本語配列のキーボードだ。個人的には日本でもわざわざ通常配列のキーボードを使っていたから、むしろ日本にいると不便だった。

Windowsは、XP以降アメリカで買っても特に日本語化のための工夫にとりたてて努力が必要ということはない。Language and Localeの設定で日本語を選べばIMEなどが有効になって、日本語入力や表示に困ることはない。メニュー表示などが一部英語でしかない、といったことが最初は不便に感じるかもしれないが、アメリカで暮らす以上その程度は何とかしなければならないわけで、これも慣れの問題。最近驚いたのは、MATLABという科学技術計算用のソフトウェアをインストールすると、アメリカで買ったWindows 7の端末にもかかわらず、デフォルトのLanguage設定が日本語になっていたためか、勝手に完全日本語化されたMATLABがインストールされた。これまで英語のMATLABしか使ったことがなかったので、メニュー表示やHelpに戸惑いながら使っているが、MATLAB自体は当然ながらアメリカで入手したものだっただけに、これにはずいぶんと驚いた。MATLABも、同じソフトウェアDVDを各国で販売できるということか。

さらに驚いたのは、最近買ったPS3も上述のMacと同様、最初の起動時に「日本語」を選択すると日本で買うのと全く同じになる、ということ。PS3も各国どこでも同じものを売っているようだ。ブルーレイのリージョンコードがDVDよりも緩やかになったようで、少なくとも日米間では違いはない。もっと驚いたのは、さすがにソフトは、、と思っていたのに、グランツーリスモ5(GT5)を起動すると、完全日本語。GT5のBlurayディスクも(リージョンコードの問題は別として)そのまま各国で売っているのだろう。まさに企業の効率化、世界の何処かで生産すれば、後は中にはさむ紙の説明書だけを各国の言語版にすれば、同じものがどの国でも売れる。

これらグローバル化、企業の効率化によるマルチ言語化は、異国で暮らす人々にはとてもありがたい。日本語設定したWindows 7を使ってBlogを書いていると、アメリカで暮らしているということを忘れてしまいそうだ。