2011年12月24日土曜日

風邪と休養

最近ちょっと風邪を引いた。12月初めにサンフランシスコに出張があったのだが、出発の前夜に38度を超える高熱。そのまま夜中はうなされ、朝5時の出発前にもまだ38度を超える高熱があった。ふらふらしながらも車を運転して空港に行って、予定通りにでかけた。ビタミンCを大量に摂取して何とかそれほど悪化はせずに過ごすことができ、体調不良ながらも仕事は何とかこなすことができた。

帰ってきてからも通常通りに仕事をしながら、風邪は3,4日で大体回復し、その後3,4日程度は順調だったものの、また38度を超える高熱が出た。翌朝は37度程度の微熱で、仕事に行ったが、午前中のうちに頭痛が起こり始め、悪寒も感じて症状が悪化。午前中いっぱいで帰った。この時は、数日休んだ。寝ても寝ても眠れるのには驚いた。やっぱり疲れていたのだろう。

どこかでこんな記事を見た。風邪の時の休養は最良のデトックスである。風邪は体からのサインだから、薬などは使わずに、暖かくしてゆっくり休むのが良い。時々風邪を引いているくらいが健康、その時にちゃんと休んで、体の言うことを聞く。高熱は免疫システムを効果的に作動させるための体の仕組み。解熱剤を使うのは本末転倒、そんな対処を続けていると、体は熱すら出さなくなり、風邪も引かぬようになる。そうすると、デトックスせずに毒を溜め込んだ体は、ある時堰を切ったように重い病を患うだろう。

ふーん、と思う。確かに風邪は引くものだし、風邪を引いたときはおとなしく寝てるのが一番と思う。どうしても外せない仕事があるときはやむを得ないが、幸いと言おうか、今回はぶり返してくれた。多分休まずに直したので、体が弱っていたのだろう。免疫も弱く、簡単に別の風邪にかかってしまったのだろうと思う。

寝ても寝ても眠れるだけ眠って、治ってみると、体は軽い。上で述べた記事にはこんなことも書いてあったと思う。風邪を引いて寝こんで治った後は、運動した後のように清々しく体が軽くなる。たしかにそんな気がした。

卵酒程度は良いとしても、ビタミンCを含め、特殊なものは一切取らず、おかゆさんでも食べて暖かくして寝て、自然治癒させるのが体にとっては良いのだろう。そんなことはわかっていてもなかなかそうはできないのが現代社会。それでもあえて、時間をかけてもゆっくり直したほうが、実はトータルで見ると安上がりなのかもしれない。

2011年12月18日日曜日

日本語でつぶやくか英語でtweetか

TwitterやFacebookでつぶやくとき、英語を使うか日本語を使うかで葛藤がある。母国語の日本語のほうが自然につぶやけるのは事実だ。しかし、Facebookで見ていると、中国人や台湾人はかなりの割合で中国語でつぶやいていて、これを目にするのは正直気分が良くない。何言っているんだかわからないし、そのあと中国人や台湾人の間でコメントし合っていたりしても、全く入り込めない。

インターネットには国境がない。ますます国際化が進む昨今、いろんな国の人がFollowしたりFriendリストに含まれることは多いだろう。やっぱり共通言語としての英語を使わないと、日本語がわからない人から見ると非常に感じが悪いんだろうな、と思う。それでもやはり、日本で生まれ育った以上、日本人の友だちやフォロワーが多かったりもする。日本人同士では、慣れない英語では思うようにコメントをしにくく、英語でつぶやいたせいで対話の機会を減らしているかもしれない。

ふと思うと、日本語でつぶやくか英語でTweetするかは、パーティー中での会話とよく似ている。パーティーの種類にもよるのだろうが、やはり一人でも日本語が理解出来ない人がいるパーティーでは、日本語は使うべきではないのだろう、と思う。仮に日本語限定のパーティーなら、当然日本語を使うべきだろうし、そこに日本語がわからない外国人が紛れ込んでいたとしても、承知の上と思って良い。しかし、TwitterやFacebookで自分のアカウントは日本語限定、とは言い切れないし、少なからず日本語がわからないFollowerや友達が含まれる。英語が理解出来ない日本人がいた場合は難しい状況になろうが、今のところ英語が全くわからない日本人が私の書き込みを読む機会はないだろうと思っている。結局、どうしても必要な場合を除き、英語でTweetするのが正解、と思っている。

2011年11月23日水曜日

プロポーザルを書いててふと思った「産みの苦しみ」

Creativeな仕事はいろいろあるけど、どれも「存在しないものを生み出す」ことに関係している。この産み出すという作業、それなりに大変なんだなあ、と久々にプロポーザルを書いていて再認識。

プロポーザルとは研究提案書のこと。研究にはお金がかかるので、プロポーザルを書いて政府機関その他からのGrantを求める。アメリカの大学では一般的。

具体的な研究のアイデアはあっても、それを説得力のある文章、批判的なReviewerを納得させる文章に仕立て上げるのは、それなりに苦労が伴う。この研究をすることが、目に見える直接的な効果があることはわかっていても、もっと大きな目で見た科学への貢献など、整理してわかりやすく伝えなければならない。何も無いところから創り上げるというのはなかなか大変なことで、時間と労力を費やしても成果がなかなか見える形で出来上がってこないことも産みの苦しみ。1文書いては気に入らずに消し、アイデアから考えなおし、ということを繰り返す。邪魔が入らずまる一日費やしても、1, 2ページ進めば良い方。研究の具体的な内容のところまで達すれば、すでにイメージがあるからスラスラと進んだりもする。論文執筆でも同様か。

さて、そんな作業をしながら、Creativeなことをするのはそれなりに大変だなあ、とふと思う。さらに思えば、出来上がった時の喜びもひとしお。うまくできてるな、とも思う。論文がきれいに組版されて掲載されるのはやっぱりうれしいものだ。それは著者冥利につきるもので、本を書く人も同じなんだろうな、と想像する。各種デザイナー、建築家、芸術家、その他、いろんなCreativeな仕事でも同じなのだろう。

苦しんだだけ産んだ時の喜びは大きいのだろうか。そんなことを思いつつ、「三歩進んで二歩下がる」苦労を続けてプロポーザルに取り組む。

2011年5月15日日曜日

少子化問題に見る刷り込み

刷り込みは怖い。まるで疑いを持たないからだ。今の日本人で、少子化は社会問題であって解決すべきだ、という議論を疑う人はどれくらいいるだろうか。また、原子力は日本にとって必要なエネルギー源である、ということも似ていたように思う。

さて、少子化=人口減少が解決すべき社会問題だというのは、大いに疑ってよい。どこかの時点でSteady State Economyに移行すべき世の中にあって、少子化はそのきっかけとなりうる。そもそも資源には限界があるわけだが、現在のGrowth Economyを前提とした考え方では資源が有限であることを一切無視している。そもそも無限のGrowthなどあり得ない、という当たり前の事実をまずは認識すべきである。

少ない人口では、各種資源の消費も少なく、住宅問題なども生じず、CO2排出量も少なくなるし、各種環境問題が叫ばれる中、良いことづくしである。1人あたりの価値を高める高水準の教育を行い、1人あたりの生産性を向上させれば、平均的な生活水準は落ちるどころか上がるし、ひとりひとりの幸福も増えるだろう。資源不足による貧困は生じることもないし、人口集中による住宅問題なども緩和される。同じ生産性を維持しながら働く時間を減らし、生きる歓びに費やす時間を増やすこともできるだろう。先進国として、最小不幸社会、また、最大多数の最大幸福、を同時に実現するには、Growth EconomyからSteady State Economyへの考え方のシフトが重要である。この中で、人口減少は重要な役割を果たす。

Growth Economyを叫ぶ主流派は、結局のところ、技術革新が根本的役割を果たすと考えているようだし、事実これまでの歴史ではそうだったかもしれない。既に地球資源に限界を感じるようになってきた今、将来SFにあるように宇宙に資源を求め、無尽蔵な資源を技術革新によって開拓していけば、Growth Economyを支えられるかもしれない。人類が生物である以上、数を増やそうとするのはそれこそDNAレベルで刷り込まれた本能と言えるかもしれない。その意味では、確かにGrowth Economyが生物として正しい方向だし、人口を無限に増やしていく方策を考えるのは尤もだとも言える。

しかしここで言いたいのは、人口減少は悪である、ということを、すべてのメディア、教育等で叫ばれていては、子供の頃から完全に刷り込まれて正しい議論ができないのではないか、ということである。刷り込まれて疑いを知らず、人口減少はよくないのだ、と「信仰」してしまう。様々な議論があってしかるべき人口問題を、このような偏った考え方で埋め尽くすことに、大いに疑問を感じる。このような刷り込みがあってこそ、ある政党は人口減少問題を掲げ、出生率向上のための政策として子ども手当というあり得ない愚策が実際に実行されてしまうに至り、また他の多くの政党でも、少子化対策が重要な政策項目となっている。政府が先頭にたってお見合いパーティーを行うのだ、とかいったふざけた政策もあったように思う。こういう馬鹿げた政策がもっともらしく報道されることはあっても、逆の視点は全くと言っていいほど出てこない。少子化バンザイで、それに対応した社会システムのシフトを提起するような政治は全く見当たらない。少子化によってより良い社会を実現する可能性はあるのに、そういう議論すら浮かんでこない。政官学民すべてで、「少子化=悪」ということを完全に刷り込まれているのではないだろうか。

2011年5月10日火曜日

Thinkpad T420s使用感

3月末の発売とほぼ同時に注文したのがしばらくかかって4月22日に手元に届いてから、しばらくになる。発送されるとUPSのTrackingが見えるのだが、本体は上海から直輸、一緒に注文したBluetoothマウスと予備バッテリーはシンガポールから直輸だった。発送されてから着くまで1週間程度はかかる。特にマウスのような既製品はまとめてアメリカに送っておいて国内輸送にしたほうがスピードが早く顧客満足度が上がる上、コスト減な気もするが、やっぱり中国に在庫を一括したほうが安上がりなのだろうか。1個1個注文があるたびに国際輸送をすると思うと、何だか不思議な気がする。

さてそれはさておき、新調したThinkpad T420sは、4月末のカリフォルニアへの出張で早速活躍、その後も職場内で何度か使っている。メインマシンがデスクトップだから、普段からバリバリ使うという使い方はしていない。基本的には机の上に鎮座しているから、この使用感レポートはまだ第一印象のようなものだと言って良い。

さて、起動は、まあ早いが驚くほどではない。さほどストレスにはならない。電源が切ってある状態から、指紋認証に指を滑らせるだけで起動してログインしてくれるのは、スムーズで使用感は非常に良い。

蓋を閉じるとすぐにスリープするが、スリープからの復帰は多少ストレスがある。このため、しばらく眠らせる場合は電源を切ってしまう。電源を切るのはスリープさせるよりは遅いが、もたつき感はない。

SSDは、モバイルには必須だと思うようになった。これまで、HDはショックに弱いという思いから、起動中、とくにHDアクセス中はなるべく動かさないように気を使っていた。その気を使う必要がないことは、ストレスの軽減となる。それでもこれまでの癖は染み付いていて、気づけばそっと扱ってしまうのだが、ああ、と気づいてガシガシ動かす。そのうち自然に慣れるだろう。

これまで使っていたラップトップが非力だっただけに、このサクサク感には文句はない。lenovoマークが外面に黒光りするのは、最初は気になったが、そういうもんだと思えば気にならない。キーボードや外面の質感には、7年ほど前のT23の記憶が蘇る。Thinkpadである。1点気になるのは、閉じた状態で外蓋がちょっとカシャカシャ言うところだろうか。

1.8kgの重量感はそれなりに感じるが、重たいわけではない。この大きさを思えば不満はない。薄さも十分。画面の大きさは1600x900で、横幅は実用に耐えうるが、縦はどうしても短く感じる。普段使っている画面が2560x1600という大画面だけに、その差が大きいのも不自由さに輪をかける。しかし、縦を長くすれば本体も大きくなってしまうわけで、これはモバイルと思えば仕方あるまい。デスクトップと同じものは求めてはいけない。

今のところ、総じて満足している。この夏は出張が続くから、出先で大活躍しそうだ。もっと使い込んでから再度レポートをしたい。

2011年4月30日土曜日

アメリカの大学のポジションについて

アメリカの大学のポジションは日本の大学とは正確には対応しないようだ。大学システムの違いもある。アメリカの大学に留学しても、どうもポジションのことはよくわからないまま帰ってしまうことも多いようだ。特に学生として留学していると、先生は皆Dr.で、Professorという肩書きも、Associate ProfessorとかAssistant Professorとか、Research Professorとかいっぱいあり、さらには若いResearch AssociateとかResearch Assistantとか、大学によってはResearch ScientistとかResearcherとかいうポジションの人がいたりもして、何がなんだかわかりにくい。

まず、アメリカの大学の研究教育関連のポジションを大別すると、テニュア、ノンテニュアの二つに分けられる。テニュア(Tenure)は終身雇用である。定年はないので、自分がリタイアすると決めるまで、いくつになっても現役である。何も付いていないProfessorというポジションは、Full Professorとも呼ばれ、ほぼ例外なくテニュアである。さらに大学によってはDistinguished Professorなどという名誉職がある。学会などの名誉会員、フェローなどと似ていて、賞に近い。以上は現役のポジションだが、リタイヤ後の名誉職として、Emeritus Professorがあり、日本で言うところの名誉教授と同等である。

次に、縦のランクで言うと、Assistant→Associate→Senior/何もなし、の順に高くなる。テニュアのProfessorの場合で言うと、Assistant Professor→Associate Professor→Professorの順で高くなる。Researcherの場合だと、Assistant Researcher→Associate Researcher→Senior Researcherの順で高くなる。ProfessorやResearcherの部分を、Research ScientistとかResearch Professorで置き換えれば、それぞれのポジションの縦のランクに対応する。これらはすべて、いわゆるFacultyポジションであり、多くの大学ではPIとなれる(テニュアトラックかテニュアでないとPIにはなれないという大学も一部あるようだ)。PIというのは、Principal Investigatorの頭文字で、いわゆる自分の研究室を持つ、ということに当たる。競争的研究資金(グラント)の申請を独立して行える身分である。Postdocや研究助手などは微妙なポジションで、Facultyポジションとみなされることはあっても、通常PIにはれない。多くの場合、Research Associateはポスドク、Research Assistantは博士号を持たない研究助手である。Associateが付いているからえらい、というのは間違った認識である。

テニュアに至る道は、原則として、テニュアトラックとして採用されてテニュア審査に合格するか、シニアなProfessorがいきなりテニュアとして採用されるか二通りである。例外的に、業績が著しいノンテニュアのResearch Professorが他大学等からヘッドハントされそうになった際、引き止めるためにカウンターオファーとしてテニュアをオファーするようなこともあるかもしれない。

誤解が多いようだが、テニュアトラックは、テニュアではない。テニュアトラックは文字通りテニュアへの途上であって、将来テニュア審査を受けなければならない。逆に言うと、テニュア審査はテニュアトラックの教員しか受けることができない。このため、ノンテニュアのResearch Professorがテニュア審査を受けることはできない。テニュア審査の合格率は大学によって異なるようだが、通常のResearch Universityでは7割程度と言われている。一部、HarvardやMITなどのトップ大学では、様子は全く異なるようだ。大学としても、多額の援助をして雇っているテニュアトラック教員が、テニュア審査に失敗されると損害が大きいので、テニュア審査に合格するよう良い業績を挙げられるように様々な支援をする。スタートアップファンドに始まり、カウンセリング等、様々な形で若いAssitant Professorの成功を助ける。

Assistant Professorはまず例外なくテニュアトラックである。5年くらいするとテニュア審査を受け、合格すればテニュアのAssociate ProfessorにPromotionされる。これが典型的なテニュアへの道。このため、Associate Professorというとテニュアな場合が多い。しかし、テニュアトラックのAssociate Professorもいる。これは、テニュアトラック公募の採用時点でAssociate Professorにふさわしい業績がある場合に起こる。この場合も数年以内にテニュア審査を受け、合格すれば、テニュアのProfessorにPromotionされる。テニュア審査に失敗すると、Promotionはなく、1年以内程度に大学を出ていかなければならない。いわゆる首である。シビアなものだ。

ノンテニュアトラックのポジションには、二通りある。いわゆるResearchトラックというものと、Lecturerのような授業を教える教員である。Researchトラックは、Research ProfessorやResearch Scientist、またはResearcherのポジションである。テニュア審査はないが、Promotionはある。Promotionのやり方は、自分が上のランクに相当すると思った時点で自己申請する。すると、複数のFacultyメンバーで構成される審査委員会で調査が行われ、Promotionの妥当性について議論、その結果が学部長や学長といった人事権者に報告される。この結果が人事権者によって覆されることはまずないから、委員会で推薦されればほぼPromotionは決まる。それぞれAssistant Researcher, Associate Researcher, Senior Researcherのランクごとに必要とされる業績が定義されているから、これに従う。Assistantの場合は過去の業績はあまり必要とされず、通常のPostdoc程度の業績で十分だが、Senior Researcherともなると、その分野では世界で名が知れていて、論文も多数あって、プロジェクトを複数抱えているようなPIであることが要求される。

テニュア(トラック)の教員は、大学の既定経費(ハードマネー)でまかなわれる。州立大学の場合は州政府予算が当てられる。ノンテニュアトラックの教員は、多くがいわゆるソフトマネー、競争的研究資金でまかなわれ、大学の財政負担はまったくないか、あっても少ない。多くの競争的資金を持つノンテニュアトラック教員がいれば、大学としてはそのオーバーヘッド(事務経費)によりむしろ儲かる。Lecturerの場合は既定経費でまかなわれることもあるかもしれないが、あくまでも授業の経費である。

2011年4月16日土曜日

トライアスロンのきっかけ

昔から水泳は苦手で、小学生の頃どうにかこうにか25メートル泳げた程度、高校では授業でバタフライ25メートルのテストがあったが、おまけで足ひれを付けさせてもらったにもかかわらずゴールできず。それから15年以上のブランクを経て健康診断対策に始めた水泳は、最初は25メートル平泳ぎでゼーゼーいって翌日は激しい筋肉痛。ここからのスタートだった。

だんだん平泳ぎは継続的に泳げるようになったが、それでもクロールをすると25メートルで息が上がる。25メートルプールで平泳ぎ3往復の間に1回片道だけクロールを混ぜることから始め、だんだんクロールの割合を増やし、そのうち片道クロール片道平泳ぎで継続できるようになった。それからクロールが連続できるようになるまではすぐのことで、一旦できるようになると、腹が減らないかぎり永久的にクロールで泳ぎ続けられるようになった。

そうすると、単に泳いでいるだけではだんだん飽きてくる。それで、何かないかなあと思い立ったのがトライアスロン。試しに走ってみると、2キロ走っただけで翌日筋肉痛で歩けない。膝も痛くなって、大丈夫かなあ、と心配になる。水泳ならずっと続けられるし、おかげで心肺は強くて、全然息は上がらないのに、足が極端に弱いのだ。じわじわと継続して、だんだんと走れるようになり、何ヶ月かすると、走る方もほぼ永久的に出来るようになった。中学生高校生の頃、持久走といえば辛いしんどい、誰が好き好んで走るものか、と思っていたが、いま走ってみると、これが存外気持ちが良い。頑張って走るんじゃなくて、風を感じ、季節の変化を感じ、日々の座り仕事で使わない体を動かし、淀んだ血流を盛んにし、疲れた精神を癒す、そうやって気軽に走る。そうすると、走るってことがそれ自体でいかに清々しくて気分の良いものかを痛感。新たな発見である。トライアスロンを意識して始めたランニングや自転車も、やってみればそれ自体がとても楽しいのだ。

その後、ハーフマラソン、ODのトライアスロン、マラソンと経験。何度かレースをやると、目に見えて遅いスイムを克服したい、とか、もっと距離を伸ばしたい、とか欲目が出る。もうしばらくは楽しめそうだ。

2011年3月30日水曜日

Thinkpad T420sを注文

今や8年半前のこと、2002年秋に買ったIBM Thinkpad T23には大満足だった。HDの挙動が怪しくなって買い替えを考えた2005年のこと、LenovoになってしまっていたThinkpadは敬遠、代わりにPowerbook G4を買った。これでDissertationを仕上げたのを懐かしく思い出す。それからWindowsに再び寝返り、今やWindows7に大きな不満はないのだが、Laptopのチョイスに困っていた。今使っているLaptopはHP製だが、作りがしょぼくて満足できない。Quality重視でビジネス向けのモデルを選択したのだが、確かに比較的安価でもあったので、値段相応と言っていい。性能は、いわゆる見た目のスペック追究型で、実用性能は正直しょぼい。そのモッサリ感は、普段快適なデスクトップで暮らしているだけに、今や耐え難い。確かにPowerbook G4は作りが良かった。でも、過去を思い起こして一番満足度が高かったのは、やっぱりT23だ。

ここしばらくのこと、仕事で使うLaptopを探していて、なかなか気に入るものが見当たらなくて困っていた。HPは見た目のスペックだけで実性能はダメという経験で敬遠。DesktopはHPを満足して使っているが、Laptopは様子が違うようだ。Envyというのに白羽の矢を立てたこともあったが、Beats Editionなど方向性がどうもしっくりと感じられず、購入には至らず。他のメーカーを見ても満足できそうなものが見当たらない。全体として安価なものが多く、Quality重視で探すとなかなか適当なのが見当たらない。一般のニーズが、安いものを早いサイクルで買い換える、という風になって、市場が淘汰されてしまったのだろう。

さてThinkpad。Lenovoに買収されて以来一瞥もくれていなかったが、たまたま雑誌記事か何かで目に止まったのが、T410s。昔のT23を思わせる外観。いつの間にかLenovoのロゴも消えてなくなり、Thinkpadの文字が光って見える。IBMのロゴがないのは寂しい気もするが、久々に見るTシリーズの黒いボディと、よく作り込まれたキーボードの真ん中で際立つ赤いトラックポイント。T23の記憶が蘇る。

今日ふと見るとT410sから1年経ったのだろうか、T420sという新型を見つけた。絶妙なタイミング。画面が若干横広で大きくなるも、ボディサイズや重さはほぼ同じで、バッテリーの寿命が少し良くなったようでもある。さらに、発売記念だろうか、セール中で、かなり割安。仕事用のLaptopをしばらく前から物色していただけに、思わず注文した。それなりの追加料金がかかったが、サックリ感に期待してIntel 160GB SSDを選択。それでも8年半前のT23と似た様な値段だ。そうは言ってもいまどきの安価なLaptopとは一線を画する。少なくとも値段相応のQuality、あわよくばPricelessな満足感に期待したい。

発売直後だったからか、発送予定が4月11日になっている。あと半月ほど、忘れながら待つことにする。

2011年3月28日月曜日

福島原発の放射性物質がアメリカまで飛んで来ると騒ぐアメリカ人への違和感

アメリカは、地上や地下、海上で、核実験をしていなかったか?広島原爆の何倍もの強さの原爆を、熱帯の海の上や、地上、地下で爆発させていなかったか?その時に、放射性物質は大気中に出なかったのだろうか?といやみを言いたくもなる。

私は原子核のことに関して専門家でもなんでもないから、福島原発から出ている放射性物質と、これら核実験で放出された放射性物質との質や量の違いなどについて詳しいことはわからない。でも、少なくとも広島に落とした原爆では被曝による被害が続いてきたわけで、その何倍もの原爆を人のいないところだからといって爆発させて、今の福島の事故とは比較にならないほど少ない放射性物質の放出ですんだのだろうか。

そういった過去の事実には一言も触れず、今回想像もできないほど激しい地震津波の結果として壊れてしまった福島原発の事故を対象に、はるか遠方のアメリカまで死の灰が飛んでくるなどと騒ぐのは何かちょっとおかしい気がする。

もちろん昔の核実験のことと今回の原発事故とは全然状況も違うし全く違う話だとは分かっている。それでも、アメリカの報道の仕方にどこか違和感を覚えた、ということなのだが、そんな違和感を覚えるのはおかしいのだろうか。

2011年3月22日火曜日

原発被災と気象情報について思うこと

大地震の被害を受けた福島第一原発で放射性物質が漏れている。大気中に漏れた放射性物質は、拡散しながら風に運ばれる。風向きは非常に重要で、風下側に運ばれるのは常識的に誰でも想像がつく。大気中のちりや化学物質の輸送などを計算するための「移流拡散モデル」というものがあって、大気中に漂う物質が数時間後、あるいは数日後まで、どのように時間発展するか、コンピューターを使って予測計算することができる。当然ながら原発から漏れた放射性物質について適用して計算することは可能なのだが、その情報発信の在り方について議論がある。

不確実な情報がその不確実性とは独立に独り歩きするのは、まずい。実際、影響を受けるかもしれないと思っている人は、安全志向に大きく傾く。少しでも危険があるのなら避けたいと思う。災害時の心理状態は不安定で、ありとあらゆる不安の中、何事に対しても疑心暗鬼にもなり、自分だけが情報から取り残されているのではないか、実は危険だと政府は分かっているのにパニックを避けるために隠しているのではないか、などという心理が働く。そんな時に、一気象学者が手元の計算機である意味いい加減に計算して打ち出した結果をインターネット上に公開し、仮にそれが少しでも自分が住む領域に影響がありそうというように示されていたら、この情報を受けてどう思うだろうか。まずは逃げようと思うだろう。少しでも可能性があるのなら、避けたいと思うだろう。至極当然な反応だと思う。それでも逃げられない人たちが多くいることも認識すべきでもある。

仮に本当に影響があるとして、政府がそのように発表したら、政府主導で大掛かりな避難作戦が実施されるだろう。政府は危険だと判断するのならそれを隠してはならない。安全だと判断するのなら、十分に理由を添えて説明すべきである。その理由は、確実な客観的な事実に基づくこと、具体的には観測値に基づくことが求められる。その点、今の政府の情報を見ていると、放射線の観測値、野菜や牛乳などに含まれていた放射性物質の観測値に基づいて発表しているように見られるので、私自身としては間違った対応をしているようには思わない。

さて、移流拡散モデルである。気象庁にもそのようなものは存在し、国際的な仕組みの中で現業的に計算されているはずである。それが、政府の意思決定にも関わるはずである。しかし、何故公開されていないのか。なぜ学者がいい加減に計算したようなものは公開されているのか。そもそも学者が計算した結果を公開するべきだろうか。

防災に関わる情報は、一元化が基本中の基本である。その意味では、政府に情報源を一元化させるのは正しい対応と言える。政府も、安全である、というのに補足して、どのようなことをしたのか、例えば気象庁は現業的に移流拡散計算をし、その結果も吟味し、また実際の観測値も吟味した上で判断しているといえば良いかもしれない。そのように発表すれば、聞いた側は当然、判断に使われた移流拡散計算の結果を見たいと思う。その際には、十分に補足説明を加えた上で、実際に計算を行った専門家から説明すると良いかもしれない。被災者の不安、疑心暗鬼を取り払うことは非常に重要である。隠すことは一切無いという姿勢である。ただし、誤解は絶対に避けなければならない。これは専門的な内容で、単に結果の絵を深い理解なくそのまま素人的に解釈してはならないということを印象づける必要もある。

さて、一気象学者としての考えを述べると、今の場合の移流拡散計算は、大いに不確実であろうと思う。まず、福島第一原発からどれだけの量の放射性物質がどのように出ているのかが不確実である。この発生源の不確実性は、移流拡散計算において致命的である。その他、降水による捕捉率や地面への付着率など物理的な過程についても、気象学者の知る範囲ではなく、正確にモデリングされているとは思えない。フワフワと地面付近を漂うようなものなのか、それとも地面にくっつきやすいものなのか、等である。大まかにどっちに向かって動いていくか、とくに2,3日といった地球規模での移流予測計算は、ある程度は信頼できるかとは思うが、絶対量としての信頼性は大いに疑問だろうと思う。

おそらく今一番助けになるのは客観的事実としての観測値である。観測地点を増やし、多くの地点で頻繁に観測すれば、遠くに行くほど放射性物質が少なくなっていることや、風向きによってどのように濃度が変動するかが分かる。そして、移流拡散計算がどの程度正しいかを知ることもできる。そういうデータを元に経験を重ねた上で初めて、もっと短い天気予報のようなスケールで、今日は家の中にいたほうが良いとか、今日は比較的大丈夫とか、そういうきめ細かい使い方にも発展できるかもしれない。そうなってくると、いよいよ移流拡散計算が現業的に使える、ということになるのだが、現状を見ていると今回の場合でそこに至る状況にはなさそうだ。

結局のところ、私の考えとしては、一気象学者がリアルタイム情報の提供などを考えてあたふたすることは、混乱を呼ぶだけであって、有効とは思えない。むしろ、気象学者が政府も知らないような取っておきの情報を持つことはありえないという姿勢を示すべきである。専門的な解説を求められれば、そのような解説は気象学者が社会に役立つ場であろうと思う。それ以外は、この経験を平時の研究に活かし、有事の対応マニュアルに組み込んでいくのが学者の仕事ではないか。今回の政府の判断や情報発信のやり方については、大きく見て正しい方向だとは思うが、移流拡散計算などに関して不安に思う人がいる中、判断に使った資料、使わなかった資料含め、避難区域設定や安全性の判断の理由、裏付けについて、さらに細かく専門的に逐一説明するのが、被災者の安心には役立つのではないかと思う。こういう時に、平時に培い築いてきた信頼性というのが本来ならば一役買うはずなのだが、今の政府はどうも十分な信頼性を培ってこなかったということもあろう。

2011年3月16日水曜日

計画停電についてふと思う

まず断っておく。私は経済学者ではない。

しかし、経済学者的な解を想像してみる。需要が供給を上回るわけだから、経済学的に最も理にかなっているのは、需給のバランスが取れるように値段を上げることだ。それだけの価値があると思う人が手に入れる。ミクロ経済学の原理である。

電気は公共財だから、というような話もありそうだが、冒頭で述べたように私は素人だから、詳しいことはよくわからない。

それよりも、一般市民から見て、この有事に値段上げるってなんてふざけた、、と思って当然。計画停電はやっぱり現実社会では正しい解だと思う。


それにしても、今回の震災の悲惨さには全く言葉がない。被災された方々はもちろんのこと、またいろんな意味で影響をうけている方々にも、なんと言ったら良いか言葉が見つからないけど、頑張ってください、と言いたい。被災して亡くなった方々には最大限の哀悼の意を表したい。

アメリカの大学にいると、いろんな国出身のいろんな人から日本への祈りと日本人への尊敬、また日本人の災害に対する応答などについて非常に高く評価する声を本当にたくさんいただいている。日本人としてとても嬉しく思うけれども、私一人ではとても受け取りきれず、これを日本に伝えられないことを心苦しく思う。

2011年2月27日日曜日

研究姿勢についてメール質問

序ながら,この際○○様の研究姿勢を参考にさせていただき
たいのですが,○○様のCVを拝見させて頂きましたが,速いペ
ースで論文を量産されている様ですね.何か気をつけている点
などあるのでしょうか?特に米国大学では,どの教官もクラス
準備,学生の指導,研究資金確保等で多くの時間を割かれると
記憶していますが,時間の使い方等含めて(勿論,アイデアが
一番ですが)何か気を付けていらっしゃることがあれば,教え
て頂ければ幸いです.

こんな質問がメールできました。以下のように答えました。

私としては特に頑張って論文を量産しているつもりは全くありません。実際私が主著者として書いている論文はそんなに多くはありません。私はResearch Professorなので、授業は担当していませんから、基本的にはすべての時間を研究に費やすことができます。学生の指導やProposalなどは研究の一環です。いろんな研究者がいて、中には文字通り論文を量産したりProposalをたくさん書いて資金集めをしたりする人もいます。そういう人は、CVを見ればすぐに分かって、主著論文が1年間に10本とかあったり、Funded Projectが10個もあるような人です。私の場合はこのどちらにも含まれません。私自身基本的には怠け者だと思いますが、サイエンスに対する好奇心や情熱は本物だと思ってやっています。人と競争すると疲れるし、論文やProposalを量産するのも目的違いで私にとってはSustainableではありません。心のなかから湧き出てくるものに従って目を輝かせて取り組むのがサイエンスだと思います。まあ、こういうことは人それぞれ考え方ですから、誰にでも適用できるものとは思いませんが、会合などに行って話していて楽しいのは、歳のいったおばさんやおじさん、場合によってはおばあさんやおじいさんみたいな研究者の人が、目を輝かせてこんなアイデアがあるとか、こういう視点で見るとどうだろう、とか、このことに関して君はどう思う、とか、まるで歳の差を感じない、心から湧いて出る興味を共有するといえばいいでしょうか、そういう時です。サイエンスは、子どものような好奇心や情熱をそのまま持って素直に楽しむのが、きれいごとのように聞こえるかもしれませんが、大事なことではないかと思います。論文やProposalを頑張って量産して疲れきった人とは話してもつまらないし、そもそも話そうとも思いません。長い目で見てSustainableとも思いません。面白いことがわかったら論文を書くし、研究のアイデアがあればProposalも書きますが、数を気にしたことはありません。さすがに一年にひとつもないと寂しく思いますが、そういう時があっても良いのではないかと思います。ただ、Postdocの場合は基本的にはボスに言われた仕事をやらないといけないので、それさえやっていればあまり心配はないと思います。PIになったら、様子が変わると思います。実際2,3年ひとつも論文もProposalもない時期があったという著名な研究者を知っています。特に新しい分野に取り組み始めたりすると、それもやむを得ません。しかし時期が来ると急にたくさん論文が出たりします。しかし、それは意図してたくさん出しているのではなく、自然と生じてくるものです。論文の数が少ないなどとあせることはなく、着実に自分の理解を深めていけば、自然と論文は出てくると思います。研究は積み重ねです。じわじわと着実に、ということが重要だと思います。市民ランナーのマラソンのトレーニングと似ていると思います。

こういうことは多分顔を合わせて直接話したほうがよく伝わると思いますが、誤解の可能性を承知の上、思うところを書いてみました。ご参考になりましたら。

2011年1月30日日曜日

Kindleのある生活

Kindleを使い始めて1ヶ月半、Kindleがない頃と比べて少し生活が変わった。活字に触れる量の絶対的な増加である。

このような効果は人によって違うのかもしれない。しかし、Kindleを買う以上、少なくとも活字に触れたいという欲求はあるわけで、活字に触れる量は少しは増えることと思う。

さて、小生の場合。Kindleを使う以前は、活字に触れるのは仕事以外ではほとんどなかった。たまに本を読む程度だが、決して読書が趣味と言えるほどの量ではない。新聞もとっておらず、ニュースはインターネットでちょこちょこっとヘッドラインをチェックする程度。それが今は、毎朝届くInternational Herald Tribune紙に目を通す。紙の新聞のようにざっと斜め読みというわけにはいかないが、各記事のヘッドラインを追いながら、最低1時間、場合によっては2, 3時間は記事を読む。本を読むのと同じ画面に同じフォントで同様に新聞記事が表示されるから、まるで本を読む感覚で新聞記事に当たる。ペラペラな新聞紙を開くのとは感覚が違う。人が直接触れる物、というのは重要だなあ、と再認識する。

もちろん紙の新聞にはその良さがある。しかし、Kindleで読む新聞は違ったものに感じる。広告は全くない。新聞を玄関まで取りに行くこともない。朝スイッチを入れればNewというマークが付いていて、ワンクリックで一面トップ記事が表示される。パソコンの画面とは違って活字はとても読みやすい。新聞というものが、Kindleによって変わった。

Blogも試してみた。New York Timesのブログで、評判もそこそこ良い。月2ドル程度で、1日10から20程度の記事が来る。記事も頻繁にアップデートされる。Kindleの画面で読むので、やはり読みやすいのは事実。パソコンのBlogとは全く違う感覚である。やはり本を読むように読める。

しかし、これはすぐに止めてしまった。その理由は、頻繁すぎるアップデートと、同じ記事が何度か重複して配信されてくることだった。やはりKindleはパソコンではない。新聞に満足していただけに、一日一回しっかりと編集されたものが手に入る方が、小生の性質に合っていたということだろう。

もちろん本も読んでいる。無料の本もある。なにより、本が本棚に溜まっていかないのが嬉しい。これは人によってはぜんぜん違う感想を持つだろう。たしかに読んだ本の分厚さを本棚に並べる喜びというのも理解できる。しかし、引越し時の本の重さは尋常でない。本は増える一方だ。今後はアマゾンの購入リストに溜まっていくだけかと思うと寂しさも残るが、実用上のメリットは大きい。常に何冊も入っているというのも嬉しい。何冊を読みかけにしておいても、すぐに閉じた場所から続きが読めるのも嬉しい。

とにかく、活字に触れる機会が絶対的に増えたのは、大きな生活の変化だ。この変化が良いかどうかは別として、Kindleの力を感じる。

2011年1月19日水曜日

研究者として売れていくということ

先日、一緒に仕事をするVisiting Scientistと話していて、どうやって講演の招待を受けるようになったり、場合によってはヘッドハントされるようになったりするのか、といったことが話題になった。確かにいつの頃からか講演の招待を受けるようになり、また、いくつかポジションに誘われたりもした。しかし改めて思うと、なぜ、どうやって、というのは至極尤もな疑問だが、すぐには答えが思い当たらない。

思うに、学生として既に業界で有名な人は非常に少ない。小生も例外ではない。やはりPhDが登竜門だろう。PhDをとって地道に研究を続け、それなりにPaperを出したり、Conferenceで発表したりしていると、そのうちにPaperのReviewを頼まれるようになる。地道に成果を積み重ねていくことで、だんだんといろんな人に知られるようになる、ということではないかと思う。

もちろん、誰もが眼を引くような研究トピックに当たって一発で有名になるようなこともあるかもしれない。しかし、世の中のほとんどの研究者にはそんな幸運はなく、それでも業界で名が知られていくのは、やはり地道な積み重ねとしか思えない。Conferenceに行けばいつもどこかで会ったことのある人と会い、お互いにお互いを認識し始める。それを何年もやれば、お互いConferenceで会う人達、という間柄になる。お互いの仕事をそれなりに知ることにもなるし、そうやって人の輪が広がる。あの人おもしろいことやってたよ、という話が伝わって、別のところから講演を招待されるようにもなる。するとそこでまた新たな人の輪に加わることができる。この繰り返しである。

科学は積み重ねである。失われることはない。そこが、世の中のいろんな事とは違う、科学の特徴的な部分でもある。キャリアの長さがそのまま科学者としての経験値に反映することになる。このため、科学者において、年功序列が自然と機能する。アメリカ的な実際的な人材評価で、やはり基本的には年功序列に従っているのは、科学が積み重ねであることにも一因があるだろう。もちろん過去の輝かしい実績にもかかわらずその後モチベーションを失えば評価は低くなるが、ここで言っているのはそういうことではなく、Consistentに仕事を続けている場合の話である。

さて話を戻すと、いかにして講演の招待を受けるようになるか、ということ。結局のところ、地道に良い仕事を続けていくうちに、じわじわと業界内のクチコミで評判が広がっていく、ということではないかと思うのだが、どうだろうか。

2011年1月6日木曜日

パソコンやPS3のマルチ言語化の恩恵

アメリカでパソコンを買うと、ほんの10年くらい前まではその日本語対応に苦労したようだ。

2005年にアメリカでPowerbook G4というMacを買ったとき、当時出たばかりのMac OSX 10.4通称Tigerは、完全にマルチ言語だった。このため、買って手元に届いて初めて起動したときに、「日本語」を選択すると、日本で買ったMacと全く同等、というわけで、とても驚いた。マイクロソフトOfficeは、メニューなどが英語だったように思うが、それでも日本語のファイル名や中身が日本語のDOCやEXLファイルの類も問題なく扱え、日本とやり取りするのに困ったことはなかった。

マルチ言語のMacということは、同じ製品をどの国でもそのまま売れるということだ。付いてきた説明書などは英語のものしか入っていなかったけれど、説明書だけを売る国の言語に置き換えればよい。顧客にとってもこのメリットは多大で、例えばアメリカ人が日本赴任中にMacを買っても、なんの問題にもならないということだ。日本で特殊なのは日本語配列のキーボードだ。個人的には日本でもわざわざ通常配列のキーボードを使っていたから、むしろ日本にいると不便だった。

Windowsは、XP以降アメリカで買っても特に日本語化のための工夫にとりたてて努力が必要ということはない。Language and Localeの設定で日本語を選べばIMEなどが有効になって、日本語入力や表示に困ることはない。メニュー表示などが一部英語でしかない、といったことが最初は不便に感じるかもしれないが、アメリカで暮らす以上その程度は何とかしなければならないわけで、これも慣れの問題。最近驚いたのは、MATLABという科学技術計算用のソフトウェアをインストールすると、アメリカで買ったWindows 7の端末にもかかわらず、デフォルトのLanguage設定が日本語になっていたためか、勝手に完全日本語化されたMATLABがインストールされた。これまで英語のMATLABしか使ったことがなかったので、メニュー表示やHelpに戸惑いながら使っているが、MATLAB自体は当然ながらアメリカで入手したものだっただけに、これにはずいぶんと驚いた。MATLABも、同じソフトウェアDVDを各国で販売できるということか。

さらに驚いたのは、最近買ったPS3も上述のMacと同様、最初の起動時に「日本語」を選択すると日本で買うのと全く同じになる、ということ。PS3も各国どこでも同じものを売っているようだ。ブルーレイのリージョンコードがDVDよりも緩やかになったようで、少なくとも日米間では違いはない。もっと驚いたのは、さすがにソフトは、、と思っていたのに、グランツーリスモ5(GT5)を起動すると、完全日本語。GT5のBlurayディスクも(リージョンコードの問題は別として)そのまま各国で売っているのだろう。まさに企業の効率化、世界の何処かで生産すれば、後は中にはさむ紙の説明書だけを各国の言語版にすれば、同じものがどの国でも売れる。

これらグローバル化、企業の効率化によるマルチ言語化は、異国で暮らす人々にはとてもありがたい。日本語設定したWindows 7を使ってBlogを書いていると、アメリカで暮らしているということを忘れてしまいそうだ。